Bunkamuraル・シネマで限定上映を見た。
ジャンヌ・ディエルマンという一人の女性の日常の3日間を
じっくりと描いた作品。
高性能家電みたいになって暮らしていた女性が
自分の快さを知って調子を崩していく
切ないお話だった。
ジャンヌは、男と寝て金を受け取り、その間にいい具合にジャガイモをゆでて、夜には帰ってきた息子と夕御飯を食べ、勉強を手伝い、ラジオを聞きながら編み物などし、散歩に出掛け、帰って寝る。
朝は早くに起き出し、息子の部屋のストーブをつけて、息子の靴を磨き、コーヒーを淹れて自分はそれを立ったまま飲むだけで、服を用意して息子を起こし、朝ごはんを食べさせて、送り出し、家事をして、買い物に出掛け、近所の赤ちゃんをあずかり、その母のぐちをきき、また別の男を迎え入れる。合間に朝入れたコーヒーと簡単なサンドイッチの食事をとる。束の間の楽しみは、カフェのいつもの席でミルクと砂糖2つを入れたコーヒーを飲むことだが、ものの数分で飲み終えて席を立つ。
ジャンヌはいつも動きまわっている。すごくちゃんとした人で、効率的に家事をこなして、いちいち電気を消し、献立も曜日で決めている。
それは、人のための動きで、自分のためのことは、とても少ない。カナダの親戚からの手紙で、彼女自身のことを気遣われても、なんと返信したらいいかわからないほど、自分の望み、感情が消える生活をまわしている。
そんな彼女が調子を崩していくのだが、きっかけはたぶん客との性交で、オーガズムを感じたこと。
ジャンヌのペースは崩れ、ジャガイモを焦がし、朝入れたコーヒーは不味く感じられ、息子の靴を磨くのにもうんざりしてくる。
しかし、自分の望み、悦びのための行動をしても、うまくはいかない。自分のコートにぴったりのボタンはこの街では見つからないし、赤ちゃんを抱き上げると泣きわめかれるし、性交でオーガズムを感じても、それは売買春の枠組みのなかだ。
せっかく求められる妻、母、女枠組みに最適化された行動をしていたのに、ジャンヌは家電でいられなくなっていく。人間家電でなくなることが、彼女の望みなら、これは解放の物語であっただろうが、そうではない。
最後、ジャンヌは座りこんで、なかなか動き出せないでいるところで、映画は終わる。
自分のためだけのコーヒーを淹れて、思う存分座っていられない女性は、今の世でもたくさんいるだろう。
客や息子が、ジャンヌのサービスを当たり前のようにうけとって、なんとも思っていないなら、いつの世のジャンヌも自分の望みをなくして暮らしていくしかない。
この映画は、映画に3時間費やせる人しか観られない。
ジャンヌは観られない映画だな、と思いつつ観終えた。