ときよとまれ

みたもの、きいたものなどのまとめブログです(映画、演劇、展覧会 感想備忘録)

不安は高くつく

精神科医中井久夫の著作を最近読んでいる。とても面白い。

その中に、強迫神経症、不安症の人たちについて書かれたところがあった。

その不安は、イマジナリーなもので、現実的に解決できない。本人の想像力に依拠したものだという。だから、どこまでもふくらんで、手におえなくなってしまう。

 

神経症までいかなくても、不安をもつと人は、それを解消するためにいろいろなことをする。

必ずしも合理的ではないので、かえって現世利益を損なうことも多い。

 

例えば、将来の経済状況への漠然とした不安から、無謀な投資話にのったり、自分の時間やお金を自己啓発セミナーやネットワークビジネスに注ぎ込む。

たぶん、同じ時間をかければコンビニなどでバイトをした方がお金になるだろう。でも、直接的にお金に困っているわけではないので、すぐお金になる仕事ではなく、「成長」や「自己肯定感」がパッケージされているその手の活動に参加するのではなかろうか。

しかしそれって、やっぱり損なのでは、とわたしは思う。

 

ほかにもいろいろな不安が商売になっている。

公教育を信頼できないから、子どもに早期の習い事や受験をさせようとする。

健康への不安から、健康食品、ジム通い、不思議な施術などに傾倒する。

 

合理的か、つまるところ損得の勘定は、それぞれの人の個別の状況にもよるだろうが、意地になって過剰にのめり込んでしまう人も少なくない。

まちがいを認めないかぎり、まちがいにはならない。これも、自分の主観に依拠しているからで、実際の時給換算では明らかに損でも、イマジナリーな「得」を膨らませて固執していく。

 

物事は、信頼できたほうがコストは低い。

わたしは水道水をそのまま飲む者だか、これも社会への信頼がコストを削減する一例である。せっかく水汲み労働から解放されたのに、水を買ってきたり、浄水器をつけたりするのはたいへんだ。

 

仮に水道水が安全でない、というなら、安全になるよう、行政に働きかけるのが正当な方法だろう。それぞれが負担を被っているのに、個人の、あるいは小さな単位で「賢い処世術」「安心」を味わってよしとしているのは、なにかに化かされているような話である。

ふるさと納税やマイナポイントもそうだが、目の前の小さな得に眩惑されているうち、社会全体の効率や利益、そして自分の利益を損なっていないか。

 

小さな得、あるいは「得」のように見えるものと引き換えに、多すぎる時間やお金や手間、不快感や我慢(これもコストである)を自分に強いていないか。

きづいたら、それをやめてみることも大切なのではなかろうか。

 

 

 

 

 

www.chikumashobo.co.jp