ときよとまれ

みたもの、きいたものなどのまとめブログです(映画、演劇、展覧会 感想備忘録)

ムニ「ことばにない」前編(作・演出:宮崎玲奈)言葉になってこなかったことを 消されたレズビアン当事者の声

劇評を見て、滑り込みで観賞。満席。

10分休憩を2回挟んで、3幕、4時間。

長丁場だが、退屈しなかった。

日本に生きてる人にとって、とても切実な舞台だと思う。

 

高校の演劇部で出会い、今も一年に一度の公演をしている女性4人。演劇を中心に活動している人、働きながらの人もいる。部活の顧問だった先生の訃報、そして彼女が書き残した大量のテキストがその息子から届けられる。それは、ひとりの女性であり、レズビアンであった彼女の声。遺志は、これを上演してもらうこと。

 

亡き先生の家は、兄弟が議員で、今は姪が世襲している。姪の議員は、マイノリティ差別発言を繰り返し、慕っていたおばの残したものを知っても認められないという。

上演を考えはじめる4人にもそれぞれの社会の、人生の負荷がかかる。

同居の恋人の心の不調、バイト先でのセクハラ、将来どうするのプレッシャー、親の病気、結婚することになった相手からの人生と身体への干渉(←これがじんわりしていて、非常に嫌な感じ。ありそう)。

 

「聞く」がテーマのワークショップのシーン、4人のやりとり、それぞれの生活、先生の息子と姪たちの会話と、なにげない日常が描かれるが、とてもスリリングだ。

作中の言葉を借りれば「見えない拳」にいつ殴りかかられるかわからないから。

ワークショップの講師(男性)と参加者のひとり(女性)がばったり再会して駅まで歩くシーン。講師はワークショップの冒頭で「わたしがワークショップの内外で強要することは決してありません」といい、またワークショップ後の食事会にも参加を見送っていた。教える側/教わる側の力関係が流用されるのを避けるためかと思った。配慮のある人に見える。

それでもあの場面、駅まで一緒に喋りながら歩く参加者が、食事に誘われたりして、セクハラやモラハラ、性加害にあわないか、わたしはずっとハラハラして見ていた。

考えすぎ? 世界を、男を悪くみすぎてる? そうかもしれない。でも、同じような状況で被害に遭うことがあると、わたしは知っている。

 

作中では、直接的にはレズビアンを「ないもの」にする言葉や力を「見えない拳」と呼んでいたが、性被害をないものにしたりするときにも同じような「見えない拳」が、当事者を殴り付けているように思う。

 

「見えない拳」を知っている人は、いつも身構えて生きてる。それは日常も同じ。

 

 

声を上げた人、声を残した人ひとりに、すべてを背負わせないようにしたい、というフレーズが、ちゃんと実感がこもって、上滑りせずに聞こえてきて、よかった。

学ぶこと、知ることを第一歩として、無意識に利用したりせずに、おとしめたり、逆に美化したりせず、誰かの声をちゃんと聞いて、他の人にも届けられるのか。

 

後編は、来年11月。楽しみにしている。

 

 

 

 

muniinum.com

 

www.komaba-agora.com