ときよとまれ

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わるい夢のような愛から覚める、あるいは異性を演じることは滑稽か『スカーレット・プリンセス』東京芸術劇場

桜姫東文章』をシネマ歌舞伎で最近見た。

へんな話である。前世で僧侶と稚児が心中しようとするが、稚児は死に、僧侶は死にきれない。生き残った僧侶は偉くなって、出家希望の桜姫と出会う。桜姫は名家の娘だが、家宝を奪われ跡取り(兄?)が殺され、世をはかなんでいる。桜姫こそ、稚児の生まれ変わりだとわかるが、桜姫が好きなのは、かつて暗闇で自分を犯した強盗の男。その男と再会したことで、桜姫の流転の日々が始まる。 

僧侶、強盗を同じ役者が演じる。姫から遊女に変転する役者の演じ分けを楽しむところも大きい。

 

最後、遊女になった姫は、夫と子どもを殺し、家宝を取り返し姫に戻る。最初にみたときは、ポカンとする結末だと思ったが、愛(欲)ではなく家、秩序、権威を大事に、取り戻せば元通りという話なのかも。

心中を持ちかけたのに死なない男や、自分を穴と金づるとしか思っていない男との愛を成就させるのではなく、姫としての立場を復活させる、権威を再び手にするというハッピーエンド。

わたしは『ゲーム・オブ・スローンズ』ではサーセイ・ラニスターが好きなのだが、決断と復活の仕方が似ているので桜姫にも心惹かれるのかもしれない。

 

 

『スカーレット・プリンセス』はそんな「桜姫東文章」をルーマニアの演出家シルヴィヴ・プルカレーテが翻案。

わりとそのままのストーリーで、奇妙な見た目、コミカルさを強化したような舞台だった。

ルーマニア語上演、日英字幕つき。字幕が出るのがちょっと遅く見にくかった。

 

一階前方のブロックの座席を半分くらいどかして、花道と音楽隊(効果音、劇伴音楽、ナレーター、コーラスを担当)の席を作っている。花道には、開閉できる穴があり(歌舞伎のすっぽんみたいな)、せりあがりはしないが、死体を捨てる井戸にしたり、モフモフの川原乞食(?)が出てきたり、飲み会の誘いがきたりしていた。 

 

偉くなったあとの清玄は肩車されて、金の紙のようなボリュームのある衣装で登場するが、告発されると担いでいた人は去り、衣装は裂かれる。

桜姫も大きな白い紙の衣装で登場するが、姦淫で責められた後は、半裸、あるいは体にそった衣装となる。

服のボリュームが、権威の大きさ。

 

お十の見栄をきるところが好き。女スパイのイメージなのか。

侍は、スーツにハットに刀。抜刀すると鉄琴のような「ティラリン!」みたいな音がつけられる。舞台脇の音楽隊がいろんな音を出す。

不思議なイメージが出てきて、奇怪な悪夢のようでおもしろい。

 

しかし、女性が男性の役を、男性が女性の役を演じることを、滑稽さにつなげて強調していたのが気になった。

宝塚や歌舞伎、オールフィメールやオールメールの芝居もあるが、異性を演じることで、純化した理想の「男性性」「女性性」を見られるところに、魅力があると思う。

歌舞伎の『桜姫東文章』は、女形が美少年の稚児、高貴な姫、蓮っ葉な物言いの遊女と、どんどん変化して演じていく。そしてだれもが心惹かれる美しさで、運命の渦の中心にいるのがおもしろい。

 

今回は、そうした美しさはなく、異性を演じることが奇妙さとか滑稽さとして描かれているのが、残念だった。

 

西洋では異性装はもっぱら、奇妙で滑稽と、描かれ受け取られるものなのだろうか。

先日見た松濤美術館で開催の「装いの力ー異性装の日本史」の図録にそんなことが書いてあったような気がする。

 

 

 

 

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